三年後の稽古

好きな名言を紹介します

【矢沢永吉】“リストラされたって借金を背負ったってそれは役だと思え。苦しいけど死んだら終わりだから、本気でその役を生き切れ”【名言】

本日は【リストラされたって借金を背負ったってそれは役だと思え。苦しいけど死んだら終わりだから、本気でその役を生き切れby矢沢永吉でございます。

 

矢沢永吉さんのこの言葉は、インタビューで語った言葉です。

 

1978年に刊行された矢沢永吉自叙伝『成り上がり』には、母親が家出、父親が原爆後遺症で早逝、親戚をたらい回しにされた、超極貧生活を過ごした少年時代。

そして、故郷の広島から上京し、皆を見返してやるといった強い気持ちをエネルギーにスターダムを駆け上がっていったその生き様が、社会現象になるほどの影響を世間に与えました。

 

『成り上がり』には、広島から横浜にやってきた自信過剰な青年が、社会の壁にぶち当たり、人に騙されたりしながらのし上がっていくさまが綴られている。

 

「1回目、散々な目に会う。2回目、落とし前をつける。3回目、余裕」

痛い目に遭ってもそこがスタート。散々な目に合っても落ち込んでいたら何もできないということである。

 

そんな矢沢さんはスターになった後も様々な事件に巻き込まれてしまう。

最も有名なものは事務所の側近によるオーストラリアの土地取引の横領事件で、矢沢さんは34億円の借金を背負ってしまうことになる。この時、もうすぐ50になる歳であった。

 

この時、矢沢さんはひどく落ち込み、目の前が真っ暗になったと言うが、1週間もすると段々とアホらしくなり、「これは映画だと思えばいい」と考えるようになったと言います。

「このたび僕は、キャスティングで矢沢永吉になった」と考えたのです。

 

死ぬなんて馬鹿らしい。役だと思うことでその役を本気で生きることで乗り切れる。そうやって矢沢さんは借金を完済しました。

 

矢沢さんはもともと自分を客観視できる人間であり、音楽においても自分が得意なのはメロディーを作ること、そしてライブで歌をうたうことだと客観的にわかっていたから、途中から歌詞を書かなくなったと言います。

 

自分のことを「矢沢」と呼ぶのも客観性の表れ、自分を「矢沢」と呼ぶことで他人の視点から自分の姿を客観的に捉えています。

 

誰もが驚くほど借金を背負い、50歳にして立ち上がり這い上がった矢沢永吉さん。

苦しいとき、挫けそうな時は、「私は私の役を演じることになりました」と自分に向かって言ってみることで、逆境を乗り越えられるかもしれない。

 

 

矢沢永吉

1949年生まれ。母親が家を出、父親は原爆後遺症で早逝。親戚をたらい回しにされ、極貧の少年時代を過ごす。中学時代、ビートルズを聴いて音楽に目覚める。高校卒業と同時に上京。ロックバンドCAROLを結成する。CAROL解散後、日本のロック・ソロアーティストとして初の日本武道館単独公演を敢行。ロックそのものの生き様に熱狂的なファンが多い。

【岸田國士】“ひとりでは何もできぬ。しかし、まず誰かが始めなければならぬ”【名言】

本日は【ひとりでは何もできぬ。しかし、まず誰かが始めなければならぬby岸田國士でございます。

 

岸田國士は戦前戦後を通して日本に新劇を根付かせた劇作家です。演劇以外にも小説、評論、翻訳など幅広く日本の文芸界に貢献した人物です。

 

かつて歌舞伎を旧劇と呼び、近代小説が描いたような、心理的な細やかな動きを表現することを目指したのを新劇と呼びました。当時西洋から来た新しい演劇は、日本人にとって大きな衝撃でした。

 

岸田國士は西洋の演劇の形を日本に根付かせ、さらにそこから自分たちで新しい日本の演劇を書いていくことに尽力しました。

 

岸田國士は「最初の人間の一人」として、パイオニア精神を持って新劇という道を切り開いてきました。ですが彼は日本の演劇界に一石を投じただけでなく、日本の文化にとって必要なことと信じ、演劇と文化をつなぎ合わせるという壮大な仕事を、壮大な志を持って牽引してきたのです。

 

自分がその道を切り開き、同士を集め、演劇、ひいては日本の文化のあり方を変える大きなうねりを起こしました。始めるものがいれば、同じ志を持つ者たちがついてきて、その流れが引き継がれていくのです。

 

よく例に挙がりますが、現在私たちが安全に美味しくフグを食べられるまでにいったいどれだけの殉教者がいたのか、今日キノコが普通に食用となっている背景にはどれほどの毒キノコ往生者がいたのか。

 

いま当然のようにあるものは、最初からあったわけではなく、誰かが苦労し、時には命を懸けて発明、発見したものなのです。

 

様々な情報がすぐに手に入る時代です。完全な開拓者はどの分野でも難しいですが、誰かがやっていることを突き詰めていくだけでも、別の切り口があることもあります。

 

その切り口を後進がついてこれるような道にしていくことも、またひとつの開拓者なのではないでしょうか。

 

岸田國士

1980~1954年。劇作家、小説家、翻訳家。東京帝国大学フランス文学を学び、パリに留学。ジャック・コポーが主宰する小劇場ヴィユ・コロンビエ座で演劇を学ぶ。帰国後、明治大学教授となり、その後文学座を創設。演劇と文学の立体化を目指し結成した「雲の会」には、三島由紀夫小林秀雄らも参加。女優岸田今日子の父でもある。

【イチロー】“小さいことを重ねることが、とんでもないところへ行くただひとつの道”【名言】

本日は【小さいことを重ねることが、とんでもないところへ行くただひとつの道byイチローでございます。

 

今や日米問わず“レジェンド”と言われるイチロー。これまで数々の名言を残してきましたが、一番有名な言葉はこちらでしょう。

 

イチローは実績を積み重ねることで、実際にとんでもないところへ行ったのですが、それは本当に小さいことを積み重ねてきた結果であり、それ以外の方法でとんでもないところへ行くことはできないと言い切っています。

 

オリックス入団3年目に1軍に定着し、プロ野球シーズン200本安打という記録を打ち立てるまで、コツコツと努力を積み重ねてきました。

 

イチローが小学校6年生のときに書いた「夢」という作文には、「365日中、360日は厳しい練習をしています。ー中略ーそんなに練習をしているのだから、必ずプロ野球選手になれると思います。」

 

小学生の頃から友達と遊ぶ時間を削り、放課後には毎日父親と二人でトレーニングをし、バッティングセンターに通う。次第にバッティングセンターの球速に慣れてしまい、バッターボックスよりも前に立って打っていたり、自分のバッティングに納得できずに泣いていたなど、数々の逸話が残っています。

中学、高校時代も同様に過ごしています。

 

その膨大で地道な積み重ねというものが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと言っているのです。

 

継続というのは、非常に難しい。例えば仕事でも、ある程度経験値が積み重なってくると飽きてしまうことがある。「飽きないで継続することができる」というのも一つの才能であると思います。

 

しかし、「飽きない」という才能が無くても、飽きずに継続できる考え方があります。

継続というのは、同じことを繰り返す反復というよりは、今までやってきたことの何かを変えようとして微調整をしていくことだという考え方です。そうするなかで小さな変化があることを楽しみにするのです。

 

「失敗を取り返そう」とか、「状況も少し違う」とか、常に新しい気持ちで継続することで、自身につながる経験の積み重ねが出来ていく。何かを継続させるには、地道な意志より、新鮮な気持ちお持ち続けることが有効な場合もあります。

 

イチローも、日本からアメリカにわたり、長年身を置いたマリナーズからヤンキースマーリンズと移り、今までやってきたことを活かしながら、一打席ずつ新鮮な気持ちで入っているのではないか。

 

今季、マリナーズに復帰した際に会見で言った「私の持っている全てのものをこのチームに捧げたい」という言葉は、これまで実績を積み重ねてきたイチローだから重みがあります。

 

イチローはまた、「過去の積み重ねがどれだけ大事なものかは、感じています。それがなければ、いまの技術や精神がつくられなかったのですから」とも言っている。

過去の積み重ねがあるから技術があり、いままで積み重ねてきたことの自身が精神力となる、それがあるからこそ今自分にある能力をしっかり出せる状態を常に保てるということである。

 

実績をつくることで、自身が生まれ、評価につながります。

よりよい方へ変化し続けることを継続と呼びましょう。

 

イチロー

1973年生まれ。プロ野球選手。オリックス時代に首位打者打点王盗塁王、シーズンMVP、ゴールデングラブ賞などのタイトルに輝く。2001年に初の日本人野手として、メジャーリーグのシアトルマリナーズに入団する。2004年にシーズン最多安打記録や、10年連続200本安打など多数の記録を保持する。

【王貞治】“人間ならミスをするというのであれば、プロは人間であってはいけない”【名言】

本日は【人間ならミスをするというのであれば、プロは人間であってはいけないby王貞治でございます。

 

この王さんの言葉には、「人間にはミスはつきものである」とか、「ミスはしてしまったけど自分なりに頑張った」という甘えを許さない強さと厳しさがあります。

自分自身の限界まで、厳しさを課してきた者のプライドを感じられます。

 

王さんは、ピッチャーが少しでも甘い球を投げると、絶対にホームランをちます。

野球の場合、バッターのミスや失敗は三振であったり、ヒットにならないことを言ったりします。

 

しかし、王さんは違います。

王さんの考え方は、甘いストライクボールをホームランにできなかったことがミスになるのです。ヒットを打っていてもミスです。

 

実は王さんは、巨人で荒川コーチに出会うまで、グラウンド以外ではほとんど練習をしない選手であったそうです。だが、1961年に荒川コーチに出会い、生活は激変します。

 

生来の素直さでコーチの言うことをすべて聞き、コーチとともに夜通し畳の上で素振りをしたり、日本刀を素振りしたり、極限まで練習をするようになった。すると成績はみるみるあがり、3年後には当時の年間最多本塁打数の記録を打ち立てるまでになります。

 

荒川コーチは、「もう俺のところには来なくていい」と言いますが、王さんは正座をして、「いままで以上にしごいてください」と返したそう。

 

「最高のものを求める強い気持ちがないと、結果は出ないものなんだ」これもまた王さんの言葉だが、年間最多本塁打の記録を塗り替えてもなお精進し続けた彼の努力の源がかいま見える言葉です。

 

 

仕事でも、受験勉強でも、「自分なりに頑張った」という人は成功しません。

「人間だから仕方ない」そう考える人はまだまだ勉強が足りないのです。

 

日本で最も入るのが難しい東大理三に受かった人たちは、夏休みは一日どのくらい勉強したのかを聞くと、寝ている時間以外はずっとやっていたと答える人が多いです。毎日15時間。

 

その人たちは、一時間の間にも、物凄い量の問題を解いています。時間の長さだけでなく量の多さで質も決まってくる。

 

量質転化という言葉があるが、徹底的に努力し続ける素直さと、最高のものを求める強い気持ちがあって初めてミスもなくなってきます。

 

仕事であっても、「ミスはつきもの」と言って同じミスを繰り返す人と仕事をしたいとは誰も思わないだろう。

常に意識の量を増やし、いろいろなことに気づきを持ち、ミスを減らしていくのである。

 

「最高を求める気持ち」が、人を一流に引き上げるのである。

 

王貞治

1940年生まれ。日本生まれ中華民国籍の元プロ野球選手、監督。現役時代は読売ジャイアンツの主砲として、公式戦通算868本を初めとする数々のプロ野球記録を保持。

長嶋茂雄とともにプロ野球黄金期を支える。1977年の日本の国民栄誉賞創設のきっかけとなった人物でもある。

そのすさまじい練習量と、人格者としての逸話はいまも語り継がれている。

 

【西郷隆盛】“敬天愛人”【名言】

本日は敬天愛人by西郷隆盛でございます。

 

普段から、天命を意識して仕事をしている人はそれほど多くないのではないでしょうか。

“こんな仕事がしたい”

“こんな職場は嫌だ”

“仕事を実現したい”

等、仕事に対する自分の望みや条件ばかり意識して働いている人が多いのではないでしょうか。

 

西郷隆盛が生きた幕末は、天から与えられた使命を果たして死ぬということがごく自然にとらえられていた時代でした。

天命というものを意識して皆が生きていた。だから明治維新のようなこともできたし、その後の日本の発展も成し遂げられました。

 

敬天愛人」とは、西郷隆盛が非常に好んで使っていた言葉で、彼に心服していた旧庄内藩士たちが西郷の教えとしてまとめてた「南洲翁遺訓」にも載っています。

 

「道は天地自然の物にして、人はこれを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。」

 

意味は単純明快で、道は天地自然のものであり、生きる道というものがあるとすれば自然の摂理に従ったものであらねばらならない。天は人を愛し生かしてくれているのだから、私もその愛してくれる気持ちをもって人を接しよう、ということです。

 

つまり、「天を敬い、人を愛する」という言葉の意味そのままであるが、「天」は「天命」を意識しているのです。

 

天命を意識し、そのために自分の人生はあると考えていた時代に比べると、現代は自分の生活だけで精一杯になってしまっているように感じます。

 

どこかで、天と自分との一対一において恥じない生き方をするという意識を持つべきではないでしょうか。その意識が西郷隆盛のように、人間の器を大きくし、人としての魅力を磨いてくれるのです。

 

人生は「大きな使命」を果たすためにあります。「天命」に恥じない生き方をしましょう。

【山中伸弥】“失敗に見えることが、実は素晴らしいことの始まりかもしれない”【名言】

本日は「失敗に見えることが、実は素晴らしいことの始まりかもしれないby山中伸弥でございます。

 

山中伸弥さんは世界で初めてヒトiPS細胞を確立し、ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

 

山中教授の研究室では実際にiPS細胞を作るための遺伝子を全部チェックしています。その中から残った20数種類の遺伝子で、どれが可能性があるのか研究室の若手研究者が一個ずつ試していきました。

 

しかし、いくつ試しても全然上手く行かない。するとその若手研究者は、「最後にやってみるか」と遺伝子全部を混ぜてしまったものを、試験していた細胞に導入しました。

 

するとあっさり、求めていた幹細胞になってしまったといいます。

つまりそれは、研究室全体に失敗を恐れないチャレンジ精神があり、その精神がノーベル賞という偉業への道を切り開いたのです。

 

明王と言われたエジソンも、白熱電球において長時間使用できるフィラメントの開発に、6000種類の材料を検証・失敗している。

 

だがエジソンは「この材料ではダメだということがわかった」と解釈し、失敗ではなく前進と捉えています。一つ一つ丁寧に可能性をつぶしていき、フィラメントの素材には日本の竹が適していることを発見します。

 

日本の科学者を取り巻く環境は、お世辞にも良いとは言えません。事業仕分けで予算が減り、政治家などからの理解がなくリスペクトされず、欧米に比べチャレンジしにくい。

若手が夢を持てない環境があります。

 

また、日本人は失敗を恐れる気質があります。挑戦する気持ち、失敗を恐れない精神、挑戦に対する賞賛が足りません。

 

「失敗の数」だけ、成功に近づきます。「道」はチャレンジすることで拓けていきます。

 

【安藤百福】“明確な目標をさだめた後は執念だ。ひらめきも執念から生まれる”【名言】

本日は「明確な目標をさだめた後は執念だ。ひらめきも執念から生まれるby安藤百福でございます。

 

何か事をなすにはひらめきが必要。そう思う人も多いのではないでしょうか。

でも実際は違います。

 

ひとつ明確な目標を定め、執念を持って邁進することでアイデアやひらめきが生まれるのだ

これが安藤百福氏の言葉の意味です。

 

ひらめきがあったから、何かを始めるのではない。すべきことに対して執念をもって取り組むからこそひらめきが生まれる。

しかし現代人にとって執念という言葉はあまり好まれていないだろう。

 

やる気や頑張りと執念は違う。執念とは何としてでも、命に代えてもという意味である。

 

執念が生まれるのは目標の有無による。

目標がないと執念も生まれない。目標達成に対して一つ一つのステップを乗り越えるのに工夫が必要になってくる。その工夫を生み出すのが執念だ。

 

絶対に成し遂げなければならないという明確な目標を自分に課し、そのためにはどうすればいいかと昼夜考え続け、そこで初めてひらめきが生まれるのだ。

 

必要に迫られなければ、人は本当にはアイデアを生み出さないのである。

 

日清食品の創業者である安藤百福氏は、1958年にチキンラーメンを開発した。さらに1971年には世界初のカップ麺、カップヌードルを開発。世界の食文化に革命を起こした。

 

もし安藤百福氏が、自分の暮らしの安泰を求めていたならば、チキンラーメンを開発したところで終わっていただろう。だが彼には、「すべての人に十分な食料を行き渡らせたい」という大きな目標があった。

 

第二次世界大戦後の食糧難に瀕し、みんなに食料が行き渡れば、世界はきっと平和になるだろうと思ったのが、そのきっかけだったという。

いまやインスタントラーメンは世界中で年間1000億食が消費されているという。彼の目標や執念は、世界の食文化を大きく変えたのだった。

 

96歳で死去した時、ニューヨークタイムズ安藤百福氏を大きく紹介し、「ミスターヌードルに感謝という社説を載せその死を悼んだ。